コラム

勝木氏 コラム

第十四話「一麹、二酛、三造り」その二

日本酒醸造界のレジェンド、勝木慶一郎氏による連載コラム第十四話、第十三話からの続編です。

先に麹黴について説明しましたが、麹の来た道筋をたどりながら、今に至る清酒のきた道を重ねて説明を続けたいと思います。麹は次の様にして酒の仕込みに取り入れられた。
1.自然発生法----- カビの生えて来るのを待つ。カビが何らかの力を持つ事を知った。
2.友種法  ----- 前回の良い麹を一部残し、次に使う。同様な手法に味噌では、種味噌や、清酒の酒母では、差し酛、酢の酛種など類似例がある。
3.種麹   ----- カビを分離して育成して使う。室町時代に京都にあった「麹座」の秘伝として共有されていた。木灰をカビに混ぜて育成する。現代の理解としては、弱アルカリ性で他の菌を抑制し、同時にカリウムを供給した。
4.種麹屋  ----- 室町幕府時代京都近郷に見られる「麹座」をルーツとする麹屋もある? 
黒判もやしも少し、理解が進むように文献にある酒造方法の進歩を絡めて全体から話します。

1.8C 播磨国風土記 「大神の御粮(みかれい)枯れて梅(かび)生えき、すなわち酒を醸(かも)さしめ庭(にわ)酒(き)を献(たてまつり)て宴しき」とあり、なにがしかの「黴」(麹)を使ったかも知れない。
2.10C 「和名抄」かむたち・加牟太知 (麹:音菊、和名:加無太知)朽也
  穀物に衣(かび)を生じて朽敗したものの義とある。
3.木灰の利用。草麹、稲麹の利用 推測するに、草木や稲の穂か由来のカビを求め、木灰をふりかけ分離し選別した?
4.よねのもやし 
  延長5年(927)延喜式(巻40 造酒司)の条
  康保4年(967)施行された。 現在6~10世紀の古代酒造の数値で把握できる文献。
  造酒司(みきのつかさ)は、律令八省の宮内省に属し、内裏豊楽殿西北の一角に在ったと発掘で推定されている。
  「酒を醸し、醴、酢の事を掌」とされ、御酒、三種糟、醴酒等を造り、宮中の祭礼、節会酒、や官人や役夫への給与酒とした。
  よねのもやしに、蘖(げつ)の字をあてる。
1)糵:一石三斗料 米一石 
2)酒造に際し、地鎮祭を行い、木工寮により、酒殿一宇、臼殿一宇、麹室一宇を建てた。茅葺き小屋?
3)朝廷の酒は、醞(しおり)方式?(汲み水から醪の粘度を考慮すると、赤米の利用が推定される)
5.律令体制の崩壊により、平安貴族社会から、武家政権へ移行する。
  酒造りにおいては、宮中造酒司から、庶民の自家醸造を経て、やがて酒屋専業の酒へ広がる。
6.鎌倉幕府政策は、「沽酒禁制」を定め、飲酒の自粛を求める。 日本の禁酒法
  鎌倉の市内では酒の売買が禁止され、民家の酒壺が破棄された。
7.朝廷より「壷(つぼ)銭(せん)」(酒造役・酒壷銭)が発布された。二つの政治中心が存在した。
8.室町幕府は、鎌倉幕府とは、真反対に「酒屋」を新たな財源の対象とした。
  14C 酒は、自給生産から流通商品として「酒屋」の酒づくりとして本格化していく。
9.応安4年(1371) 天皇即位に際し、全国に段銭(たんせん)を課す。
  土倉は、(金融質屋)30貫文、酒屋は、酒壺一個につき200文
  段銭とは、水田一反あたり50~100文の収入と見なせば、土倉30貫文は、面積30~50町歩に相当する収穫高になる。
  課税対象者を農業従事者から商工業へ対象を広げる政策が採られた。
  同じく酒屋に対する課税は、酒壺の保有数を対象とし、一個あたり幾らと、非常に合理的な「造石税」として始まった。
10.明徳4年(1393) 土倉、酒屋に対する段銭は、「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」として明文化され一般財源として、
  幕府財政に組み込まれた。
11.15C 酒造業は、全国に広がる。
12.応永33年(1426) の洛中の登録「酒屋」の数は、342軒にのぼり、大半が「土倉」を兼業している。
  中でも洛中の四条、五条を中心に繁栄し、洛外では、嵯峨、鴨川東岸、伏見地区にあった。
  酒屋役と呼ばれた、酒税は、一酒屋あたりの酒壺数は、15~120個と開きがあるように見える。
  中でも、有名な「柳酒屋」は、五条坊門西洞院に在り、酒屋役として、720貫文を納めている。
  京都が酒屋の繁栄を見た理由は、一言で言えば、都であった。
  京都には、田は無いが、荘園領主の在住地で諸国から年貢米が集積された。
  米穀市場が三条室町、と七条通りに立ち、馬(ば)借(しゃく)(輸送組合)により、北国米が、さらに淀伏見鳥羽から
  西国米が集産し賑わった。
13.酒麹の製造販売権は、北野社(北野天満宮)に属する「座衆」が独占していた。
14.この当時、地方の銘酒としては、河内天台宗天野山金剛寺の「天野酒」、大和菩提山寺の「菩提泉」や近江百済寺酒の名柄が知られていた。
15.麹座の隆盛と衰退
  酒造に絶対必要な麹は「麹座」により、製造と販売が独占されていた。やがて、貨幣経済の進展により、従来の経済体制が崩壊し、
  やがて麹座も無くなった。
  1)麹座の成立は、13世紀頃、「知行」による所領支配権利行使とされる。
  2)麹造りは、家伝秘伝で、「木灰」利用等、特殊な技能と設備を必要とした。
    中世では、酒屋と麹屋は、それぞれが、分業し独立した別の産業として栄えた。
  3)座とは、中世に存在した主に商工業者や芸能者による同業者組合組織で、座は公家や寺社を「本所」とし、
    座役や奉仕を行い、代わりに営業や販売の独占権などの特権の保護を認められた。本所は座の構成員である
16.「文安の麹騒動」は、現代の清酒醸造にも大きく影響を及ぼしたと思う京都で起きた麹にまつわる騒動。
  簡単に概略を話すと、北野天満宮(北野社)に属する「北野麹座」による幕府を後ろ盾とする麹の独占権利の継続強化と
  次第に資本を蓄積し、酒屋に麹室を造り、麹の自家製造に乗り出す酒屋との勢力争いに、幕府、朝廷、比叡山延暦寺が
  絡み合う。幕府は北野社に肩入れするが、一方「酒屋」側は延暦寺をたよる。延暦寺は洛中に「嗷訴(ごうそ)」を行う。
  たまらず幕府は、独占販売権を廃止するに至る。北野社は幕府と対立し戦火を交え、一帯は兵火に包まれる。思惑は外れ、
  結果として麹座の衰退に繋がる。これ以降酒屋は、自前の蔵で麹を作るようになっていく。
  麹座は、技術を継承し一部は「種麹屋」として生存をはかり、「種麹」を酒屋に販売し、酒屋と麹屋は、共存し共栄し、
  600年が経過した。やがて、室町幕府が衰微し、京は戦乱の時代を迎える。やがて、「座」の命運も信長の楽市楽座政策により
  次第に終焉の時を迎える。
  見学者A:今に至るも「種麹」が酒造りのキーポイントだったと、理解しました。
  説明者K:明治になり酵母や麹菌の科学的な解明が進みます。しかし、それでも長い間は、麹菌の一部が酵母に変化して酒を作る。
  アルコールを作ると認識されていました。別の見方をすれば、古い時代の「麹」には、黄麹菌を始め酵母も、乳酸菌も、その他細菌
  も全て含まれていたのでしょう。時間の経過で野生の菌は、飼い慣らされ飼育されて「家畜菌」になったと想像することができます。


              鴨の流れは絶えずして





この時代を理解するには、権力の所在が一つでは無く、二つ三つと絡まっている。
1)朝廷 2)幕府 3)寺社勢力 それぞれが、警察権を持ちつつ存在していた。
その中でも、嗷訴(ごうそ)を理解すると時代の雰囲気がより身近になる。天下三不如意、平家物語巻一
「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心にかなわぬもの」嗷訴とは、比叡山延暦寺僧侶(僧兵)により、
朝廷に抗議を行う際に「神輿(みこし)」を担いで朝廷に乗り込むことをいう。
なぜお寺に御神輿があり、お宮の祭りで担ぐのでは無いか?今では不思議な事ですが、明治になり廃仏毀釈が起こるまで、
神仏習合が普通に行われていた。寺に神社の併設は普通であった。当時は、寺が上座、神社下座と考えられていた。
明治になり、廃仏釈が激しく発生した理由の一とも考えられる。さらに、重要な点は、今の人には理解しかねるが、
神輿は山を下りただけで穢れる。一度穢れたら作り直す必要がある。その、新規に作る費用は、朝廷が出す。
一基の新造には、千貫文(米一石)かかる。米1,000石分程かかる。1,000石とは、成人1,000人が一年間食べていけるだけの
米の量であり同じ程度の金額を要した。京都では、朝廷には、幕府(武士)、神社には、神人がいて、寺は山法師がいる。
それぞれが、自警団(警察)を時前で持っていた。お互いの勢力を競う中で、時代は日宋貿易により、貨幣が輸入され、
貨幣経済が確実に進行していった。

17.「御酒之日記」長享3年(1489年)室町時代に常陸守護(茨城県南西部)であった「佐竹氏」に伝わる酒造の口伝書。
  書の冒頭には、「能々口伝(よくよくくでん)、可秘(ひすべし)、可秘」
  1)御酒について、「造酒司」時分と異なり、酛添の二工程からなる。
    酛仕込は、白米一斗、麹米六升、水一斗
  2)天野酒は、二段仕込み法、汲み水が従来より延びる。二番目の添仕込みは、物量が多く、「かめを二口くみ分けて」
    と書かれ、仕込み容器に制約ありと読める。
  3)菩提泉は、温暖期の仕込み法?
    ① 白米を浸けた水の中に更に「おたい」飯を浸け、乳酸発酵を促す。
    ② 次に「おたい」と米麹を混ぜ、筵に包み保温する。
    ③ 酛工程と醪工程の区別が微妙に解りずらい。
18.「多門院日記」: 文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年間、奈良興福寺の塔頭多聞院において、
  僧の英俊を始めとして、三代の筆者によって、延々と書き継がれた日記。近畿一円の戦国時代の社会経済に関する
  記述の中に一部酒に関する記録があり、当時の酒造技術に関する貴重な記録である。
  1)永禄11年 (1568) 酒の仕込みは、旧暦九月と翌年二月の二回に分けて仕込む。夏酒と正月酒と称する。
  2)添、仲、留の三段掛仕込み法に進歩した。
  3)添と仲仕込みの間があり、踊り期間と考えるが、10日間空けている?
  4)「火入れ」と考える操作を行っている。
  5)10石仕舞と思える木桶の存在をうかがい知る。
    佐竹文書にある「かめ2石」甕から、進歩し16C末 10石木桶の出現を知る。
    その原因としては、14~15C 大鋸の出現があり、16Cには、前挽き鋸から台鉋が普及、木桶の大型化と結い樽の
    出現をもたらし、「壺や甕」から「桶と樽」へ進歩した。ただし、技術の開発や普及の原動力は、戦国時代の兵器
    の進歩、戦術の高度化、築城の必要性がある。
19.洛中の酒から、南都諸白、そして伊丹諸白へ、「本朝食鑑」は、元禄8年(1695) 宇都宮在、平野必大の著作によれば、
  和州南都の諸白が諸国銘酒中第一で、伊丹、池田の摂津酒が次ぐ、京の酒は、「和摂に近接していて、米水も良好なれど、
  酒が甘すぎる」と書かれている。
20.南都諸白(麹・掛け米共に精米)の特徴として、
  1)原料である。米水の精選を最初にあげている。
  2)酛仕込みは、煮酛、水酛の「育て酛」による。暖気樽の仕使用も書かれる。
    酒母は、蒸米一斗、麹七升、水一斗四升
  3)添、仲、留の三段仕込み法に進歩している。
    掛米の仕込は、蒸米一斗、麹六升、水八升を量を変えずに、三回繰り返す。
    醪総量は、一石一斗五升 麹歩合60% 汲み水 米一石 水五斗八升(5.8水)
  4)仕込み容器は、壺・甕から木桶に変更されている。
21.この南都諸白を継承し、伊丹諸白が発展し、やがて寒造りの「灘五郷」の発展に繋がる。
  江戸時代の末に灘五郷で完成に至る近世酒造技術は、こうして進歩しました。

見学者A.酒造りと麹の辿ってきた道筋が少し見えたように思います。高校の歴史で習った幾つかの単語もつながりが
少し理解出来ました。これを機会に身近にある興味を引く事柄を一度整理したいと思います。
蔵の人N:普段なにも意識せず麹を作っていましたが、今日の話で、蔵で使っている種麹が「菱六もやし」で京都の七条
で作られている事に気づきました。
説明者K:伏見も酒所として有名ですが、種麹屋のルーツも遡れば、室時代の麹座にたどり着きます。
これを機会に酒造りを含め伏見や京都に更に興味を持って頂きたいと思います。京都を舞台に戦国から安土桃山時代を過ごし、
今の日本にも精神的な影響を残している茶人千利休に次の様な言葉があります。松本酒造の銘柄にある「守破離」も素晴らしい
言葉の一つですが、次の言葉が好きです。「その道に入らんと思う心こそ、我が身ながらの師匠となりけれ」


                 蔵の建物


主な参考文献
日本の技術 日本酒 柚木学 著
日本酒の来た道 堀江修二 著
酒造要訣 小穴富士雄 著
清酒工業 山田正一 編著
京を支配する山法師たち 中世延暦寺の富と力 下坂鎮 著

勝木 慶一郎氏 紹介

・醸造家酒造歴:50年、佐賀 五町田酒造45年、京都 松本酒造5年
・特技:酒造工程の改善、SDKアルコール分析法の考案
・趣味:写真機、世界中のBeerを一種類でも多く飲む、真空管ラジオで短波放送を聴く

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